ブログ◆なぜコウノトリが赤ちゃんを運んでくるのか

先日スタッフ間で「むかしはコウノトリが赤ちゃんを運んでくると言っていたね」という話になりました。む、むかし? 今は言わないの?(´ε`;)

いまむかしはともかく、このイメージは日本固有というよりグローバルスタンダード、いやむしろ欧州発祥の考え方で、もともとは赤ちゃんを運んでくるのは「コウノトリ」ではなく「シュバシコウ」という鳥だったようです。どちらもコウノトリ科ですけどね。(ちなみに上の「いらすとや」のイラストはシュバシコウ的な配色です。SASUGA!)
それにしてもなぜコウノトリなんでしょう。(調べたら諸説あり。長くなるので割愛します)

いずれにしても、若い時分の私は「コウノトリが赤子を運んでくる」説は非科学的で(※1)、なにより性の話から逃げる大人の卑怯な「子供騙し」論法だと思っておりました。
今は違います。むしろコウノトリ説に全面的に同意します。

赤ちゃんはコウノトリが運んできてくれるんです!( ・ิω・ิ)キリッ

 

私たちヒトの場合、概ね一対の男女の性交の結果として子どもが産まれます。その行為は「子作り」とも称され、種々の条件を勘案したりしなかったりして男女の片方もしくは双方が主体的に関与して遂行されます。つまり大抵の場合、子どもは生物学上の親となる個体の意思のもとで<産>まれてくるのです。(※2)

でもね、だからといってこの女性や男性の意思で「この」子が<生>まれたワケではない。ここ大切なところです。

子どもが産まれる原因となった物理的行為は確かにこの男女の意思によるのかもしれません。しかし、「この」子が生まれてきた理由は、どう考えてもかの男女の意思は関係ありません。ある女性の胎内から出てきた子どもが「この」子であったのはたまたまです。もしかしたら違う「あの」子だったかもしれません、「その」子だったかもしれません。産んだのは確かにその女性ですが、彼女は「この」子を選んで生んだわけではない。生もうとしたところで「この」子は生めません。
誤解を恐れずに言うと前段落の<子>は、<魂>と置き換えるとわかりやすいかもしれません。

そういう意味では、やはりわが子は「わが子であってわが子でない」と言えそうです。
子どもは、両親の子どもという体裁で母体から産まれてきた。けれど、その両親のモノではなかった…。古来日本では妊娠したことを「赤ちゃんを授かった」と言います。「コウノトリ」の考え方は、赤ちゃんとはまさに授かり物、天与のものということを高らかに謳い上げた大人の<覚悟>の発露です。

 

他者から何かをいただいたときには2つの約束(ルール)があります。
大切にすること、そしてお返しをすることです。

だから子どもは大切に育むことが求められます(ただでさえ弱いし)。お返しは…天与の、神様からのものですから直接返しようがないので、社会に後世に寄与するという形で返すという形をとります(それは結局「子どもを成熟した大人に導く」=「大切にする」ことになりますね)。

この2つの約束を果たすという<覚悟>が「コウノトリが子どもを運んでくる」説にはある!と私は思います。

 

「のんきのすゝめ」的に「親の気持ちがふわりと軽くなるほうを、そのつど如意自在に選」ぶなら、こういう考え方をするとちょっとやる気が出ることもあるよということで、失礼の段、御海容ください。

※1 この場合の「非科学的」とは、おもに現在の西洋式科学に基づく考え方を指します。しかし「これに当てはまらないことはすべて誤り」とするのは早計に過ぎることは今はわかります。
※2 本稿では「産」という語を出産すなわち「子を体外に出す」という具体的な現象を言う場合に用いています。これに対し「生」は「存在する」という意味で用いています。

このページなぜかアクセス数が多いので続編のリンクも貼っておこう。こっちはまさにコウノトリや生態系の話です。

かんだむつみ

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